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2005年2月20日 (日)

「シャウト」出版記念会 

妻たちの気がかりはひとつ他人より幸せそうに見えるかどうか  大橋麻衣子
声あらげ怒りをぶつけている先は子にあらず子の内に棲む夫 大橋麻衣子
夜明けまえに鳴く鳥の声わたしなど居なくなっても誰も困らない 大橋麻衣子

出不精で短歌関係の催しに出かけることはないのですけど、昨日の大橋麻衣子さんの「シャウト出版記念会は、内容がよかったからなのはもちろんですけれど、なにしろ発起人とパネラーのメンバーの豪華さにひかれ、えっちらおっちら、出かけてみたものでした。
出かけてみれば本音炸裂な、とてもたのしく充実した会で、たとえば小池正博氏の「世界の中心で悪意を叫ぶ」というような名言が続出。(おまけ:『世界の片隅で、呪詛を唱える』に出版差止め命令(虚構新聞発))
終了後、ある有名歌人のおふたりが化粧室で「今日の会はよかったね~」と語っておられたことに、会の感想は尽きるとおもう。(ごめんなさい○さん△さん。密談、ばっちり最初から最後まで聞いてました~♪)

たとえば「体」を詠むこんな歌。

幼子を抱く三人の母親は同じリズムで体を揺らす 大橋麻衣子
手の平より発火し燃えてしまえばいい子を打ちしあとのわが体など 大橋麻衣子
くれてやるにはまだ早いわが体を突き破ろうとする獅子のあり 大橋麻衣子

一般的に女性の体という言葉で想起される、産む性としての豊饒さも美しさも、この「シャウト」では意味をなさない。
同じリズムに安住している他者への違和感、子供を打つ母としての自分、その自分を破り暴れだそうとする破壊の衝動の自覚。
作者は叫んで叫んで、叫びまくる。まさに「シャウト(叫び)」である。

たとえば数すくない自然詠のひとつ、夕顔をも、こんふうに詠む。

無神経な女のごとし大きなる身をひろげ咲く夕顔の花 大橋麻衣子

無神経な女か・・というところだろうが。
ちなみに夕顔の花言葉は「はかない恋」、「罪深きひと」・・
源氏物語にも、罪ふかくもはかない美女としてえがかれる夕顔だが・・
そう、夕顔は頭の中将と愛し合って女の子を設けるが、正妻に脅迫され、女の子を連れて身を隠した云々、というおはなしがあった。
正妻側からみれば、美々しく豊かに花開いて男を誘惑する、許しがたい無神経な女ということかもしれないといえば、そうかもしれない。

このように「シャウト」の世界は一方的で、さらにいうと狭いかもしれない。
だが、それらはまた潔さにもつながるのはたしかである。
「シャウト」は、夫との確執というどろどろな世界をあつかっていながら、存在自体が否定されあやうくなりそうな、滅入り込むような暗さ・自らをも見失いそうになるまでにいたる狂気に似た愛執というようなものは(あまり)感じられない。
そう、「シャウト(叫び)」といっても、ムンクの「叫び」じゃない
葛藤というものとは色合いが違う、、間違っているのは間違っているというふらつかないしっかりした視点と、むしろ簡潔といっていい言葉と表現、たとえば無神経なものは無神経と言い切る堂々とした詠みぶりがそうさせるのかもしれない。

批評会では、もっと自分を信じ、読者を信じたらどうかという声もあったが、

姿見の中のわたしと手を合わすここから先には行けないふたり  大橋麻衣子

作者の興味は自然や社会や他者にむかってひらかれることはない。視点はつねに自分にあり、たとえばこの歌のように、姿見の鏡の世界のなかから出ようとせず、鏡に映った自分にむかい「ここから先には行けない」と、つねに自分を制し、閉じ込め、硬質な狭い世界の中で縛られ、傷ついているようにみえる。

子を宿していた頃と同じ眠っても眠っても眠い何か生まれる 大橋麻衣子
閉じた目の裏側で光遊ばせる心を殺す術おぼえたり 大橋麻衣子
床の上に解き放たれて牛乳は力の限り広がってゆく 大橋麻衣子

「姿見の中のわたし」が力を得て「ここから先に行」けば、「力の限り広がってゆく」こんな歌がもっとうまれるのではないか、とおもった。
それが作者にとっていいことか悪いことかはわからない。だがそのとき、「何か生まれる」というそれは、きっと「心を殺す術」ではないはずである。

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コメント

祝賀会ではひさしぶりのお酒に、乱れた。

▼「わたしが○×賞を獲得したら、わたしのこと、妹って、呼んでくださいますか」
といって年下の◇さんを、おもいっきり引かせてしまったこと。
(みんな、わすれてください~(叫

▼「何年かあと、迢空賞をとったら、おまえ、壇上で泣けよ」と△さんが◆さんに迫ったこと。
(わすれませんよ~(笑

・・まだまだあるけど、省略。

投稿: 美頬 | 2005年2月20日 (日) 12時11分

自分の中のどろどろってあんまり見つめたり、考えたことないんです。現実主義でかつ事なかれ主義の私は、見つめてみても利得がないと思っているからに違いありません。
絶対アーチストや宗教家にはなれない自分を感じますです。はい

投稿: いわ | 2005年2月21日 (月) 11時16分

何だか読んでいて怖くなりました。

人の心の裏側なんて、見えなければ幸せな事もありますね。

投稿: seurat | 2005年2月21日 (月) 12時23分

いわさま~☆

わたしも自分の中のどろどろって、あんまり見つめてみたこととかって、ないなぁ。
めんどくせーや、ってゆっかー。
どろどろはわたしの中ではなくって、外にあるしー(問題発言
いろいろ考えたって、老け込むし(笑


seuratさま~☆

>人の心の裏側なんて、
>見えなければ幸せな事もありますね。

うん。本当にそう思うよ。
でも見えちゃったら仕方ない。
ただ、見えたというだけで、存在しないこともある。気の迷いというか、思い過ごしというか、幽霊みたいなもん。
そんなときには南無三、と唱えて、お供え物する(プレゼントね) とか、お経を唱える(愛の言葉ね)とか、その他オプション・・(省略)

でもそれでうまくいきゃ、世話ないし、詩歌なんか必要ないんだよね、きっと。

投稿: 美頬 | 2005年2月21日 (月) 16時20分

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